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甲府地方裁判所 昭和31年(ワ)41号 判決

原告 鈴木実

被告 国民金融公庫

主文

被告より原告に対する甲府地方法務局所属公証人松川正光作成第五二六一二号消費貸借公正証書に基く強制執行はこれを許さない。

原告その余の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は二分しその一を原告その余を被告の負担とする。

本件につき当裁判所が昭和三十一年二月二十四日になした強制執行停止決定はこれを認可する。

前項に限り仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は被告より原告に対する昭和二十九年六月二日甲府地方法務局所属公証人松川正光作成第五二六一二号消費貸借公正証書に基く強制執行はこれを許さない。被告は原告に対し、金五万円、及びこれに対する昭和三十一年二月九日以降完済に至るまで年五分の割合による金員及び、同日以降本件差押が解放されるまで一日金千円の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求め、その請求原因として、被告は昭和三十一年二月八日甲府地方法務局所属公証人松川正光昭和二十九年六月二日作成第五二六一二号消費貸借公正証書の執行力ある正本に基き原告所有の有体動産を差押えた。しかして、右公正証書には、原告が昭和二十九年六月二日被告から金二十万円を借り受けた旨及び原告は直ちに強制執行を受くべきことを認諾した旨の記載がある。しかしながら(一)右公正証書は、訴外坂野福雄が、被告の代理人である甲府商工信用金庫社員訴外亡竹村克巳と共謀の上原告の印章を偽造行使して恣に嘱託作成したものであつて、原告の全く関知しないところであるから無効であつて、原告が同公正証書記載の如き債務を負担するいわれがない。(二)また右公正証書には原告が嘱託人として列席し、署名捺印した旨の記載があるが、原告が公正証書の作成に全然関知しないことは前述どおりであるから右公正証書は、何人かが原告なりと借称の上、原告の氏名を冒書し且偽造の印章を捺印したものである。従つて、右公正証書は、公証人法第三十九条第三項の手続を顧慮せずして作成されたものであり元より無効である。故に右いずれの理由によるも本件公正証書は執行力を有しないのである。しかして、右差押えに係る物件は、原告店舗の商品、及び家財道具の全部に及んだので、原告はやむを得ず差押の翌日である昭和三十一年二月九日から閉店するに至つたのである。原告の開店による一日の収益は当時金一千円であつたから、原告は、閉店により昭和三十一年二月九日以降毎日金一千円の割合による得べかりし利益を喪失し、同額の損害を蒙りつつあるのである。これは被告が執行力のない公正証書であることを知りながら情を知らない執行吏をして原告所有の有体動産に対し強制執行をなさしめたことにより原告の蒙つた損害であるから、被告は原告に対し右不法行為による損害賠償として、昭和三十一年二月九日以降前記差押が開放されるまで一日金千円の割合による金員を支払わなければならない。また原告が、右不法な強制執行により蒙つた精神的苦痛は誠に甚大なものであるから、被告は原告に対し右不法行為による損害賠償として、金五万円の慰藉料を支払わなければならない。仍て原告は、本訴に於て前記公正証書の執行力の排除を求めると共に、前記不法な強制執行を受けたことによる損害賠償として、被告に対し昭和三十一年二月九日以降本件差押が開放される迄一日金千円の割合による金員並金五万円及び右金五万円に対する昭和三十一年二月九日以降完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだのであると陳述し、立証として、甲第一号証乃至同第五号証(但し同第四号証は写)を提出し甲第二号証は偽造された本件公正証書であると述べ証人鈴木喜重、同山口平三郎、同小川はな、同鈴木弘子、同小林偉伸、同松川正光、同長坂義男の各証言並に原告本人尋問の結果(第一、二回)を援用し、乙第一、二号証の各一、二の成立は不知、同第三号証の成立は認める。乙第三号証の欄外「壱字削」の下に押捺されてある印影は原告の印影であるが同欄外「二字訂正」の上に押捺されてある印影及び同号証の末尾の鈴木実名下の印影はいずれも司法書士大原仁三のところにある認印を押捺したものであつて、原告の印影ではない。尚乙第三号証の「壱字削」の下、甲第二号証の原告名下、同第三号証の印鑑証明願に押捺されている〈鈴木〉の印影はいずれも同一であることは認めると述べた。

被告訴訟代理人は、原告の請求はこれを棄却する訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め答弁として、原告主張事実中被告が昭和三十一年二月八日、原告主張の公正証書の執行力ある正本に基き原告所有の有体動産を差押えたことは認めるが、その余の主張事実は総て争う。本件公正証書は、原告の署名並に印章を偽造行使して嘱託作成されたものではない。仮りに、原告、自身本件公正証書に署名捺印したものでなく訴外坂野福雄によつて、なされたものであるとしても、原告は同訴外人に対し、被告より前記公正証書表示の金員を借受けること。及び原告の署名を代書し、且捺印して、本件公正証書を作成することを委任し、同訴外人はその趣旨に従い被告と同公正証書記載の消費貸借契約を結び且原告に代り公正証書の作成を公証人松川正光に嘱託の上、同訴外人に於て同証書に本人たる原告の署名捺印をしたものであり、それは、勿論署名代理として有効であるから原告自ら本件公正証書にその署名捺印をしなくとも、公正証書の作成が、公証人法第三十九条第三項所定の手続に違反したことにはならない。と陳述し、立証として、乙第一、二号証の各一、二、同三号証を提出し、同第三号証には二種類の原告の印影が押捺されていると附陳し、証人坂野そめ、同雨宮栄之助(第一、二回)の各証言、鑑定及検証の各結果を援用し、甲第一号証乃至同第三号証並に同第五号証の各成立、同第四号証の原本の存在並に成立を認める同第二号証は、本件公正証書であつて、真正に成立したものであると述べ、尚乙第三号証の「壱字削」の下、甲第二号証の原告名下、同第三号証の印鑑証明願に押捺されている〈鈴木〉の印影はいずれも同一であると述べた。

理由

被告が昭和三十一年二月八日甲府地方法務局所属公証人松川正光作成第五二六一二号消費貸借公正証書の執行力ある正本に基き原告所有の有体動産を差押えたこと。右公正証書には原告主張の如き消費貸借契約が成立したこと及び執行認諾の意思表示をした旨の記載がなされていることは当事者間に争がない。よつて、先ず右証書の執行力の有無につき判断するに、原告は本件公正証書は、訴外坂野福雄が原告の印章を偽造行使して恣に嘱託作成したものであつて原告の全然関知しないものであるから無効であると主張する。しかして証人鈴木弘子の証言並に原告本人尋問の結果(第一回)によると、右主張に添う供述があるが、該供述は当裁判所に於て、措信しないところであり、他に右主張を認むべき証拠がない。却つて、本件公正証書である甲第二号証の原告名下の〈鈴木〉印影と、成立に争のない乙第一号証の「一字削る」の下に押捺してある〈鈴木〉の印影と、成立に争のない甲第三号証に押捺してある〈鈴木〉の印影とがいずれも同一であることは当事者間に争がない。右争のない事実と検証並に鑑定の各結果を綜合すると、原告は、本件公正証書の原告の署名下に押捺してある〈鈴木〉の印影と、同一印影を有する印章を所持し昭和三十年十一月二日附原告より国民金融公庫甲府商工代理所宛回答書と題する書面に捺印使用していることが推認される。しかして右事実と、証人坂野そめ、同長坂義男、同松川正光、同鈴木弘子、証人雨宮栄之助(第一、二回)の証言(但し、証人松川正光、同鈴木弘子の証言中後記措信しない部分を除く)並に原告本人尋問の結果(第一回但し後記措信しない部分を除く)を綜合すると、原告と訴外坂野福雄とは、同じマーケツト内に住み互に懇意な間柄であつたものであるところ、原告は同訴外人から国民金融公庫より金融を受けるについて名義を貸与されたいと懇請された結果同公庫より、同訴外人を連帯保証人として金二十万円を借り受けそれを同訴外人に貸与することを承諾の上、金員借用に関する手続一切を同訴外人に委任すると共に公正証書作成については執行認諾の意思表示をなすことをも承諾したこと、その後昭和二十九年六月二日訴外坂野福雄が原告宅に本件公正証書を持参し、同証書の列席者署名捺印欄に原告の捺印を求めたので原告は自宅に於て、右証書に自己の印章を押捺してこれを同訴外人に交付したがその余の本件公正証書の作成手続には関与しなかつたことが認められる。しかして証人松川正光、同鈴木弘子の各証言並に原告本人尋問の結果(第一回)中右認定に牴触する部外は当裁判所に於てたやすく措信し難く、他に右認定を覆すに足る証拠がない。以上認定の事実を綜合すると、本件公正証書はむしろ原告の意思に基き作成されたものであり、決して、訴外坂野福雄が、原告の署名を偽造行使して恣に嘱託作成したものでないことが明かである。尤も成立に争のない甲第五号証、証人小林偉伸の証言並に原告本人尋問の結果(第一回)の一部によると原告は昭和三十年十月頃印鑑盗用のかどで、所轄警察署に訴外坂野福雄を告訴しその頃告訴人として、係官の取調を受けてその供述調書に署名押印したがその調書に捺印されている〈鈴木〉の印影と、本件公正証書末尾列席者欄の原告の署名下に押捺されている〈鈴木〉の印影とが同一でないことが認められ、一見本件公正証書の捺印は原告の関知しないもののようではあるが、原告は昭和三十一年十一月二日当時公正証書に押捺してある右印影と同一印影を有する印章を押捺使用していること前認定の如くであるから、右供述調書の印影が、本件公正証書の印影と同一でないこと自体は、前記認定を妨げる資料とはならない。よつて本件公正証書が訴外坂野福雄に於て原告の印鑑を偽造行使して恣に嘱託作成したもので無効であるとの原告の主張は理由がない。

進んで本件公正証書が、公証人法第三十九条第三項所定の手続に違反して作成されたものであつて無効であるとの主張につき判断するに、公正証書の作成手続上に公証人法違反の瑕疵があり、それが公正証書を無効とするほどの重大なものであるときは、これを事由として、民事訴訟法第五百四十五条に基き請求異議の訴を提起し得べきものと解すべきところ、本件公正証書である甲第二号証によれば、その冒頭に「本公証人は昭和二十九年六月二日当役場に於て、嘱託を受けた当事者間における法律行為に関し、聴取つた陳述の趣旨を左に記載する」その末尾に「此の証書は昭和二十九年六月二日、本職役場に於て作成し、列席者に読聞かせたるところ、各自録取の正確を承認し、左に署名捺印した」と記載され、その文書につづいて、列席者長坂義男、鈴木実の署名捺印がある。従つて、文言上本件公正証書は、訴外長坂義男と原告とが公証人役場に出頭して、その作成を嘱託し、両名が嘱託人として列席し公正証書の録取事項の読聞けを受け且録取の正確を承認したる後、署名捺印したこととなつている。公証人が公正証書を作成するにつき右手続を履践しなければならないことは、公証人法第三十九条第一項第三項に規定するところである。所謂執行証書はそれ自体債務名義たる効力を有し、債権者は容易に執行文の附与を受けて、強制執行ができるのである。かくの如く執行証書を作成した債権者が執行手続上強力な権限を有する点に鑑みれば、同条第三項が列席者の署名捺印を要求する所以は、同法の他の規定と相俟つて公正証書が正当の権限を有する者によつて嘱託作成され、その記載事項が常に真実に合致することを確保せんとする法意であることが窺い知られるから、右手続を履践することは、公正証書に公正の効力を賦与する要件であると解するのが相当である。しかして、署名は、個性を有し行為者を識別する要素であるから、右法条の精神に照し、同法条の署名は、行為者の自署たることを要し、署名代理の観念を認める余地はないものと解すべきである。しかるところ、前記認定の事実によれば原告は、本件公正証書の列席者欄に捺印だけをし、署名はしなかつたことが明かである。しかして、原告本人尋問の結果(第一回)によると原告は、昭和二十九年六月二日に公証人松川正光方に出頭し、本件公正証書の作成方嘱託し、列席の上、その内容の読聞けを受け若しくは閲覧し、これを承認したこともないことが認められる。尤も原告は訴外坂野福雄に対し、同訴外人を連帯保証人として被告公庫より金二十万円を、借用することを委任すると共に金員借用に際し公正証書を作成し執行認諾の意思表示をなすことを承諾しその後同訴外人が持参した本件公正証書の列席者欄に自己の印章を押捺して同訴外人に交付したものであること前認定のとおりであるが、右事実より推せば、原告が捺印した当時、同証書に既に原告の氏名が記載してあつたか、或は、自己の氏名を記入することを同訴外人に委嘱したか何れかであると認められるところ、公正証書の性質上、列席書の署名は自署たることを要し、署名代理を認める余地ないこと前認定のとおりであるから、本件公正証書は、公証人法第三十九条第三項の手続に違反して作成されたものであつて無効であり、もとより執行力を有するものではない。従つて、原告の本訴請求中本件公正証書の執行力の排除を求める部分は理由がある。

次いで損害賠償の請求につき判断するに被告が原告主張の日本件公正証書の執行力ある正本に基き原告所有の有体動産を差押えたこと及び、本件公正証書は無効であつて執行力を有しないことは既に認定したとおりであるから、右差押は明かに違法な執行行為である。よつて、右強制執行が違法であることにつき被告公庫の法定代理人に故意又は過失があつたかどうかにつき判断するに、原告の掲げる全証拠によるも右公庫の法定代理人が、本件公正証書が執行力を有しないことを認識しながら敢て執行吏にその執行を委嘱したことを認めるに足る証拠はないし、また知らなかつたことにつき過失があることを認めるに足る証拠もない。却つて、証人雨宮栄之助の証言によると被告公庫は甲府支所を設け、その業務の一部を金融機関である甲府商工信用金庫に代理させ、前記公正証書表示の消費貸借契約は同金庫の職員訴外竹村克巳が、現実に担当したものであるところ、同人は昭和三十年八月十八日死亡し、他に右貸付の事情を知る者はなく、被告公庫の法定代理人が執行吏に委嘱し、本件差押をなさした当時前記消費貸借及び公正証書が真正に成立されたか否かは、貸付関係書類によつて判断せざるを得ない事情にあるところ、同金庫が保管している貸付関係書類によれば右貸借関係を認めるに足る書類が整備されて居り、しかも右貸借については、公正証書が作成されていることが認められる。しかして、右公正証書たる甲第二号証によると本件公正証書は執行証書たる形式的要件を総て完備していることが認められる。以上認定の事実を綜合すると被告公庫の法定代理人は右公正証書が有効に成立したことを信じて疑わなかつたものであることが推認される。しかして、消費貸借につき執行認諾の意思表示のなされた公正証書が作成され、しかもその形式的要件に欠くるところがない以上、現実に契約締結並公正証書作成に関与しなかつた者が、これを有効なものと信ずることは、無理もないことであるから、被告公庫の法定代理人が本件公正証書を有効と信じたことは何等の過失を伴うものではない。よつて、被告公庫の法定代理人には、前記違法な強制執行につき故意又は過失のないことが明かであるから、たとえ被告公庫の前記違法な強制執行により原告が損害を蒙つたとしても、右所為は不法行為を構成しない。されば原告の本訴請求中右強制執行が、不法行為を構成することを前提として、損害賠償を求める部分は爾余の争点について判断するまでもなく理由がない。

よつて、原告の本訴請求中本件公正証書の執行力の排除を求める部分は正当としてこれを認容し、その余は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条を、強制執行の停止決定の認可並に仮執行の宣言につき同法第五百四十八条第一項第二項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 野口仲治)

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